コラム 音楽

宮沢賢治に影響受けたミュージシャン②/ヨルシカ

2022-07-17

谷川の小さな小学校。子供たちの方言からおそらく岩手県花巻市あたり。
2学期の初めの日に標準語を話す不思議な少年が転校してきました。
宮沢賢治の『風の又三郎』と、それをモチーフに『又三郎』という曲を作ったヨルシカについて、考察していきます。

どっどど どどうど どどうど どどう

物語の冒頭は、九月一日、リズミカルな風の擬音語から始まります。

どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう

宮沢賢治-風の又三郎

宮沢賢治は音楽にも親しんでいて、童話にはよく歌が挿入されています。言葉の持つ語感を活かした歌で有名なのは『月夜のでんしんばしら』などがあります。

作詞だけではなく作曲もしていて、『星めぐりの歌』はもっとも多くの人たちに親しまれています。

作詞作曲もしていた宮沢賢治ですから、この「どっどど どどうど どどうど どどう」にはどんなメロディを構想していたんだろうと想像するだけでワクワクします。

風は、そよそよではなく、ピューピューでもなく、「どっどど どどうど どどうど どどう」と吹くのです。二学期の始まり、9月に吹く風は台風ということですね。何しろ木の実を吹き飛ばすほどの風ですから。

高田三郎くんは風の又三郎だったのか

宮沢賢治は農学校で教鞭をとっていた時期があります。妹のトシも教師でした。学校の先生のセリフ、そして子どもたちの方言の会話がとてもリアリティに描かれています。

子どもたちの方言に対して、標準語を話す転校生の三郎はちょっとミステリアスに映ったことでしょう。でも、会話が成り立っていますから、子どもたちと三郎は少しづつ仲良くなっていきます。

ところが、九月十二日の朝、三郎から聞いたあの歌を夢でまた聞いた一郎は、胸騒ぎがして目が覚めます。外は台風がきて、林は唸るようだし、戸を開けると風と雨粒がどうっと入り込むような朝でした。

「一郎、いまお汁(ツケ)できるから少し待ってだらよ。何(ナ)して今朝そったに早く学校へ行がなぃやなぃがべ。」

 お母さんは馬にやる を煮るかまどに木を入れながらききました。

「うん。又三郎は飛んでったがも知れなぃもや。」

「又三郎って何だてや。鳥こだてが。」

「うん。又三郎って云うやづよ。」

宮沢賢治ー風の又三郎

あまりに短い三郎と地元の子との交流した期間です。たったの十二日間しか、学校にいなかった転校生。九月のある時期しか吹かない風と同じです。

あの転校生は、人間の高田三郎なのか、風の又三郎なのか。宮沢賢治は最後まで正体は書かずに、謎は謎のままで物語は終わってしまします。

「そうだなぃな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」

 嘉助が高く叫びました。宿直室の方で何かごとごと鳴る音がしました。先生は赤いうちわをもって急いでそっちへ行きました。

 二人はしばらくだまったまゝ、相手がほんとうにどう思っているか探るように顔を見合わせたまゝ立ちました。

 風はまだやまず、窓がらすは雨つぶのために曇りながらまだがたがた鳴りました。

宮沢賢治-風の又三郎

文学であって、音楽であるアーティスト

宮沢賢治は童話や詩を執筆しながら、音楽もこよなく愛していました。レコードでクラシック音楽を聴いたりチェロを演奏したりしていました。文才もあって音楽もやって、絵も描いて、今だったらアーティストと呼ばれていたでしょうね。感性があり表現力もあって、文学という分野では収まりきらない才能だったのだと思います。

同じように、最近思うのは、米津玄師やヨルシカは、文学的な詩を書くアーティストだなと思うのです。

ヨルシカの音楽は文学的

ヨルシカは作詞作曲とギターを「n-buna(ナブナ)」さんという男性、ボーカルを「suis(スイ)」さんという女性で組む二人組ユニットです。

n-buna(ナブナ)さんの詩は文学的で、歌いだしも、サビも、小説の一節を読んでいるような詩です。例えば、『又三郎』という曲の歌いだしはこうです。

水溜りに足を突っ込んで あなたは大きなあくびをする

酷い嵐を呼んで欲しいんだ この空も吹き飛ばすほどの

出典:又三郎 作詞n-buna

「あなた」は又三郎でしょう。又三郎なら風を呼ぶことができるから、ひどい嵐を呼んでほしいと私は言うのです。

現代社会の閉塞感、不安、憂鬱さなどを打ち壊して欲しいという想いを風の子に託したと、ヨルシカのサイトでは紹介されています。

青い胡桃も吹き飛ばせ 酸っぱいかりんも吹き飛ばせ

もっと大きく 酷く大きく この街を壊す風を

出典:又三郎 作詞n-buna

青い胡桃も吹き飛ばせ・・・・の部分は宮沢賢治が作詞したところから引用しています。

宮沢賢治の『風の又三郎』はのどかな田舎の小学校が舞台で、子どもたちの純粋な心から出る方言が魅力的な作品です。
それとはまた違って、ヨルシカの『又三郎』は現代の青年が社会の閉塞感を吹き飛ばしてほしいと歌うのです。どうっと吹き渡る風のように疾走感あふれるナンバーになっています。

これは、個人的な想像ですが、もし田舎の一郎たちが大きくなって、上京して都会に出たら、青年の一郎は「n-buna(ナブナ」さんが作った詩のようなことを思ったかもしれないと思うのです。

吹けよ青嵐 何もかも捨ててしまえ

悲しみも夢もすべて 飛ばして行け又三郎

出典:又三郎 作詞n-buna

言葉のリズムがメロディーになるアーティスト、宮沢賢治とヨルシカ

わたしが子供のころから愛してやまないフレーズは、「どっどど どどうど どどうど どどう」です。なんてリズミカルな詩でしょう。

宮沢賢治はこれを冒頭に持ってきました。ここで、読み手の心をキャッチしているのです。

ヨルシカは、逆にラストに持ってきています。何故なら、曲を聴いている人は、宮沢賢治の『風の又三郎』を知っているからです。「青い胡桃も吹き飛ばせ」ときた段階で、あのフレーズはいつ出てくるのだろうと思うはずです。

ラストなのです。最後の最後に 

どっどどうど どっどどうど どっどどうど どっどどうど

出典:又三郎 作詞n-buna

宮沢賢治も、ヨルシカも、言葉のリズム感があって、自然にメロディーにのせる才能があるのです。

文学から曲を作った宮沢賢治と、音楽から文学を描いたヨルシカ。鏡を見るように似て非なるものです。
もしも、明治・大正・昭和を生きた宮沢賢治が、平成・令和を生きたら、ヨルシカみたいになるのかもしれないですね。

宮沢賢治の世界をAIアートで表現している記事はこちらです。

もちろん、「風の又三郎」もあります。どうぞご堪能ください。

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